吉原遊廓は江戸唯一の幕府公認の遊廓です。
創立は元和3年(1617)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門(しょうじじんえもん)が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことよりはじまります。この地には葦(よし)が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名されました。しかし次第に吉原が江戸の中心地となったため、明暦3年(1655)に現在地である千束村へ移転となりました。以後、日本橋葺屋町辺にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます。
その後、吉原には連日多くの人々が詰めかけ、魚河岸、芝居町と並んで一日に千両の金が落ちるほどの繁華街として賑わいました。このように賑わった背景の一つに、吉原が身分や階層を超えた開放的な社交場という役割を担っていたことが挙げられます。吉原は大名・旗本や豪商等の交流・接待の場として使われ、また文化人による句会や絵暦交換会などの文化交流も頻繁に行われました。したがって遊女の中にも和歌、俳諧、茶の湯といった高い教養を身に付けた者が多く、また気位も高かったため、遊客にもそれなりの心構えと教養が必要でした。
また吉原は歌舞伎・文学・浮世絵といった江戸庶民文化の題材としても頻繁に取り上げられました。その担い手である文人・絵師・版元といった文化人は常に吉原に集って交流を持ち、多くの作品を手がけていきました。したがって吉原は江戸庶民文化の発信の場でもありました。例えば新吉原入口に店を構える版元の蔦屋重三郎は歌麿や写楽といった浮世絵師や多くの文人に出版の機会を与えるとともに彼らと集会を催して文化人のネットワークを築いています。
さらに吉原では四季折々の年中行事とそれに伴う様々な演出が施されたことも特徴で、歩いて眺めるだけでも楽しめる江戸随一の観光地でもありました。したがって廓内にはこれら非日常的空間を見物することだけを目的とした「ひやかし(素見/すけん)」と称される人々も多く、吉原に訪れる人々の約七割は見物目当ての「素見(ひやかし)」だったようです。
こうして吉原には江戸文化を代表する独自の文化が発達しましたが、これは吉原が単なる女性と遊ぶ場というだけでなく、同時に江戸の一大社交場としての役割も担っていたからだろうと考えられます。
その後、吉原は明治以降も遊廓としての営業を続けましたが、時代の波に従って次第に江戸期とは性質を異にして行き、昭和33年の売春防止法の適用によってその長い歴史に終止符を打ちました。
それから60年近く経過した現在、かつての吉原文化を掘り起こして活気ある街をつくろうとする取組が町会を中心に展開され注目を浴びています。